パンドラの匣・・・ぼくの事態はもう少し深刻である - 2011.02.22 Tue
堀くんの記事「学校アーキテクチャの抱えるジレンマ」
は、ぼくの授業・学級への
藤原さんの授業記録「授業参観記」
を踏まえた、「雑感」ということになる。
堀とぼくとは、数年来の伴走者であり、堀の指摘は、ぼくの考えている事をよく言い当てている。
藤原は、明るく未来志向の強い青年教師である。ぼくの取り組みが、ぼくのある見通しの上に立った、最終的に「問題解決」されていく提案の始まりなのだと、分析している。少し失礼な書き方になってしまうかもしれないが、問題は必ず全面的に解消していくと、基本的にはそう考えていて、そのための道筋の途上に、ぼくがいると考えているわけである。
で、堀は、その藤原の分析を、多分そうではなく、石川はもう少し「相対的」なバランスの中で、「環境調整的」な方向にシフトさせようとしているわけ(だけ)だよ、と説明している。
この議論は、非常に、今のぼくの立ち位置を鮮明にする。
ぼくは、多分、堀が考えているように歩いてきた。
しかし、ここまで歩いてきて、これは基本的にはバランスの問題に収斂できない、自己崩壊を伴う道筋なのだと思い始めているということなのだ。
ぼくは、パンドラの匣を開けつつあるのだという自覚を持っている。
「学校は学校である限りにおいて、教師の権威性を必要とせざるを得ない。その権威性に浅い権威性と深い権威性があり、狭い権威性と広い権威性があるだけなのである。」
と堀は言う。それは全くその通りである。
そしてにも関わらず、その枠組みの中で、ぼくは今、反戦自衛官のような、自己崩壊の道を行けるところまで進んでみようと思いはじめている。
村田栄一や鳥山敏子の仕事を、丁寧に読みなおしている。最初に読んだ頃には、全く気が付かなかったことがなんとなく見えてくる。調べてみれば、村田も鳥山も、ぼくと同じような頃に、多分、パンドラの匣をあけはじめた教師なのである。
一方で、最後まで踏みとどまった琴寄政人の、一読ぐちゃぐちゃに思える本にもとても共感できる。山本哲士的なものへの拒否(山本哲士的なものの相対化)を、琴寄ははっきりと明言していて、とてもおもしろい。
ぼくも、以上のようなことを、やっと、少しずつ言葉にできるようになってきた。
今日は東くんが家まで来てくれた、飯を食べながらいろんな話をする。
ぼくは結局若手教師を育てたいのではない。せめてぼくの立っている場所を理解してくれる仲間を増やしたいと思っているのだと思う。結局は、そういうつながりも、自分の「終わりなき日常」(少し古いね)の延命に手を貸してくれる環境を、生産し、再生産し、つづけているだけなのかも、と思う。
そんなことを書きながら、来月はじめの総合にやってくる画家、盛本学史さんとメールで計画を詰め、ちょんせいこさんとの電話会談の日程を詰め、もっとも制度的なものである明日の期末テストをしぶしぶ作っているのである。
は、ぼくの授業・学級への
藤原さんの授業記録「授業参観記」
を踏まえた、「雑感」ということになる。
堀とぼくとは、数年来の伴走者であり、堀の指摘は、ぼくの考えている事をよく言い当てている。
藤原は、明るく未来志向の強い青年教師である。ぼくの取り組みが、ぼくのある見通しの上に立った、最終的に「問題解決」されていく提案の始まりなのだと、分析している。少し失礼な書き方になってしまうかもしれないが、問題は必ず全面的に解消していくと、基本的にはそう考えていて、そのための道筋の途上に、ぼくがいると考えているわけである。
で、堀は、その藤原の分析を、多分そうではなく、石川はもう少し「相対的」なバランスの中で、「環境調整的」な方向にシフトさせようとしているわけ(だけ)だよ、と説明している。
この議論は、非常に、今のぼくの立ち位置を鮮明にする。
ぼくは、多分、堀が考えているように歩いてきた。
しかし、ここまで歩いてきて、これは基本的にはバランスの問題に収斂できない、自己崩壊を伴う道筋なのだと思い始めているということなのだ。
ぼくは、パンドラの匣を開けつつあるのだという自覚を持っている。
「学校は学校である限りにおいて、教師の権威性を必要とせざるを得ない。その権威性に浅い権威性と深い権威性があり、狭い権威性と広い権威性があるだけなのである。」
と堀は言う。それは全くその通りである。
そしてにも関わらず、その枠組みの中で、ぼくは今、反戦自衛官のような、自己崩壊の道を行けるところまで進んでみようと思いはじめている。
村田栄一や鳥山敏子の仕事を、丁寧に読みなおしている。最初に読んだ頃には、全く気が付かなかったことがなんとなく見えてくる。調べてみれば、村田も鳥山も、ぼくと同じような頃に、多分、パンドラの匣をあけはじめた教師なのである。
一方で、最後まで踏みとどまった琴寄政人の、一読ぐちゃぐちゃに思える本にもとても共感できる。山本哲士的なものへの拒否(山本哲士的なものの相対化)を、琴寄ははっきりと明言していて、とてもおもしろい。
ぼくも、以上のようなことを、やっと、少しずつ言葉にできるようになってきた。
今日は東くんが家まで来てくれた、飯を食べながらいろんな話をする。
ぼくは結局若手教師を育てたいのではない。せめてぼくの立っている場所を理解してくれる仲間を増やしたいと思っているのだと思う。結局は、そういうつながりも、自分の「終わりなき日常」(少し古いね)の延命に手を貸してくれる環境を、生産し、再生産し、つづけているだけなのかも、と思う。
そんなことを書きながら、来月はじめの総合にやってくる画家、盛本学史さんとメールで計画を詰め、ちょんせいこさんとの電話会談の日程を詰め、もっとも制度的なものである明日の期末テストをしぶしぶ作っているのである。
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