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2020-08

佐村河内さんのことなど - 2014.02.09 Sun

佐村河内さんの件は、クラシック音楽好きの一人として、やはり感じたことを不十分になるだろうが、少し言葉にしておきたいと思う。

まず彼の一連の作品が注目を集め始めて、ぼくの周りでもFBやら合唱団やらで、この曲を聴きましたかと尋ねられたり勧められたりした。
で、元来みんなが飛び付くものに虚勢をはってやせ我慢する性分なので、当然どのCDも持っていなくて、コンサートも行っていない。つまりまともに曲も聴いていないのである。
でもテレビでドキュメントは見た。

ということで、基本的に楽曲の善し悪しも議論できない立場なのだ。

が、例えば耳も聞こえない、轟音の中で作曲するみたいな佐村河内さんの発言が、「現代のベートーヴェン」という言葉が見事に示しているような物語仕立てに編み込まれて曲が聞かれていく様を、まあ、そういうもんだよなと思いながら横目にちらちらやせ我慢しながら見ていたのである。

ぼく自身のことで言っても、スメタナのわが生涯の最終楽章の終盤、絶頂を極めた音楽が暗転する場面が、耳が聞こえなくなったスメタナの悲劇を表しているというストーリーなどを知り、もうそういう事を抜きにしては聞けなくなってしまうというような経験がある。逆に言えば、そういう精神的苦悩・懊悩みたいなもんを背景にして作曲されてきたものが、そういうパッケージごと聞かれるという形での音楽作品は(文学作品も)、既に芸術的価値などというものが存在するとするなら、少なくとも手法としてはもう使い尽くされてしまった前時代的なものだということだ。

メシアンやショスタコーヴィチが20世紀において新しい芸術として受容されたのは、政治と個人という新しい物語を提供したからで、それすら21世紀においてはもう使えないものだ(メシアンもショスタコーヴィチもぼくは大好きだ)。

江別のえぽあホールで聴いたデ・ラローチャの弾くショパンが生涯最高の演奏だと思っているが、それは、ホールの場所がわからなくて、あぶなく遅刻しそうになった経験や、おそらく日本に来るのはこれが最後になるのだろうという老匠への哀惜の気持ちや、そういうものが演奏の判断に重なっていないわけがないと思っている。
オラモとバーミンガム市響のシベリウス2番、ノリントンとN響のプラハ、塩谷哲と吉田美奈子のコンサート・・・それぞれ特別な演奏に接したという実感とともに生涯忘れないものになるが、いずれもいろんな物語がくっついている。

つまり音楽というものは「純音楽」として聴く、いわば絶対零度の音楽として聞かれることなどあり得ないということを、知っている。

ところが、基本的にはそのようなものがあるように思っている人がたくさんいるんだということに改めて気付かされるわけである、今回の騒動を見ていて。

翻って、では、国語科のテキストの問題はどうなのかというと、これも学問的には決着のついている問題なのだと思う。絶対零度のテキストなどあり得ないわけだ。そういう意味では、例えば分析批評のようなものを、一つの方法として丁寧に活用する態度に異論はないが、それが程度の問題に過ぎないことがわからずに金科玉条のごとく振りかざす教条的な教師に出会ったりすると辟易として黙り込んでしまいたくなるわけである。
結局テキストは個々が個々の物語に回収して読まれていくしかない。として、それでは国語教室で一斉に同じペースで同じ教材を読むことにどん意味や意義があるのだろう。それを使って教えているのだとする「読み方」ですら、結局は個別バラバラの固有の物語に回収されていくものではないか、と。

まあ、佐村河内さんの行為は断罪されるしかないわけで、共犯者だと語った新垣さんも同様なのだ(それにしても共犯者という言葉のなんと美しいことだろう、すごい)。が、芸術の受容の問題や、テキストの問題、現代における作曲家の置かれる不安定な立場や商業主義との相克・・・いろんな問題が見事に見えてくる問題提起の形に、全部が最初から仕組まれた物語なのではと思えてしまうほどであった。
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● COMMENT ●

しばらくコメントを差し控えようと思っていたのですが…。

「絶対零度のテキストなどありえない」という感覚、40をすぎた今なら良くわかります。ストラヴィンスキーの引用技法(リコンポジション)で修論を書いたものとしては、佐村河内氏のパスティーシュにしか聴こえない多様式混交の音楽にポストモダンの極致を見つつ、そこに重ねられた障害(克服)の物語をどこか醒めて眺めていたところがあります。それでも、音楽を聴く前に講談社の『交響曲第一番』(2007)を読んでいたため、その苦悩と自らが院生時代に体験した精神的危機を重ねて、氏の存在に強く感情移入していたことも否めません。

ゴーストライターとして名乗り出た方とは、同い年であり、かつ同じ作曲の師をもつ者ですので、どうもこの問題は、私としては一般化して語り得ないです。もう少しじっくり考えてみようと思います。

2月の「3人会」、参加して直接お話しすることを楽しみにしていたのですが、部活の演奏会と重なってしまいました。私は自分の持ち場で、目の前のこども達と、身の丈に合った「固有の物語」を丁寧に紡ぎたいと思います。今月は九州ですね。くれぐれもご自愛ください。ではまた。


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Author:石川晋
北海道の中学校教師を退職しました。
都内に潜伏して、ゆっくりのんびりしなやかに、教育、芸術、自然の話をしながら、これからの自分のことを考えつつ、新しい状況に対応する「学びのしかけ」のことを考えて行きます。facebookアカウントは、
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