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2017-10

あらためて「制服」を入口にして - 2012.11.16 Fri

 先日、雑誌原稿を巡るやりとりの中で、本当に久しぶりに「制服」の話が出た。
 ほとんどぼくにとっては虚をつかれるような感さえある話題であった。

 日本標準の『とっておきの道徳シリーズ』の中学版が出るということになった時に、いい機会なので、制服にについて考えてみようと思った。これがもう8,9年前のことだ。調べて改めてわかったのは、制服を着せるということに、法的合理的な理由などほぼ見いだせないということだった。面倒だから裁判起こしたりする人もほとんどいないが、基本的には、人は着たいものを着る権利があるのだ。

 だが、かつての異装(教育用語ですね、要するに制服を改造したり、通常とは違う形で来たりする行為)は、そういう基本的人権うんぬんで持っての闘いだったのではなく、まあ、単純に若者の権力への対決だったわけである。で、もうこの10年ほど、私は生徒の服装問題でかつてのように深刻に悩んだことはない。今でも過激にやっている一部地域以外は、多分この問題は生徒指導事案の中心的な事案の座を降りているように思う。もともと酒や煙草のように、建前でも未成年者は害が深刻だから、というようなことや、法律違反であるということなどの、明確な基準がなく、一番子どもにとって闘いやすい場所であるはずの、制服が問題にされなくなったのはどういうことなのか。

 私が暮らす十勝地区は、生徒の荒れが厳しかった時期をへて、ほとんどの学校が日常をジャージで過ごすようになってしまった。儀礼的な場面でのみ制服を着る。みんなそのことについてもうあまり違和感も持たない状況になっているように見える。
 子どもたちは、制服を着てくるように言うと、面倒くさがって嫌がる。制服なんていらないよね、先生、という。まさに隔世の感だ。

 それで最初の編集者とのやりとりで、ああと思ったことがある。
 要するに子どもたちにとって、学校は本気で闘う場所ではなくなっているのだ。正確にいうと、本気で勝ち取っていかなければならない人間関係(生徒間)の問題はあるが、教師に代表されるような学校権力や構造の問題は、学校の地盤沈下の中で、もうほんとに闘わなくちゃならないものではなくなっているのだ。
 そのことに未だ気づけずに、学校の問題がいまだ闘われなければならない場所と認識しているのは、教師と保護者である。教師も保護者も、実際の当事者である子どもたちの意識の変容の問題には目を向けずに、ひたすら昔ながらの問題意識を振り回しているようにしか見えない。保護者がそれを振り回さなくてはならないのは、学校との接点、つまり問題が発生した場面のみである。しかし教師はそれが日常なわけだ。教師はまさに周回遅れのピテカントロプスみたいなのである。例えば、教師が職員会議で、制服なんてどうでもいいじゃんと言えば、これはもうあっという間にマイノリティとなる。白い目でみられたり、厄介な奴だと思われたりする。もう子どもたちにとってはどうでもいいことになりつつあることが、教師社会においては未だに重要事案なのだ。教師はまだ、そこで細々と暮らしているのである。

 私自身のことで言えば、私はそれまでの自由な服装を捨てて、旭川市の大規模校の最後の年の冬に、スーツに着替えた。あの頃の自分は、思想的にも最も右傾化した時で、要するに、この制度下でそこに合わせて生きていくということを選びます、という意思表示でもあった。また、冒頭で述べたとおり、何の法的背景もない制服を「着せる」ということは、最終的には(当時はよくわかっていなかったが)「俺も着ている、周りの先生も着ている、お前どうすんのよ。」という同調圧力による標準化によって仲間外れを作ることで組織を守る発想だったわけである。
 しかし、次の複式校は、同じ市内でも全く違い、多くの先生がスーツを着用していない学校であった。
 そしてその後転出した十勝管内の学校は今の学校にいたるまで、管理職以外はみなジャージである。つまり、子どもも先生もジャージ(作業服)を着て、それで一律同じなわけだ。
 そうなってはじめていろんなことが見えてきた。私はそのジャージ一色の中で、一人きりスーツを着続けている。そこで初めて、旭川の大規模校での無言の同調圧力は、何を着ているかではなく、みんなと同じものを着ているか、であることに気づいた。それとともに、もうそういうバカバカしいことに関わらず、ぼくが毎日面倒くさくなく着れるものを着続けようと決めた。今一人スーツを着続ける自分は、子どもたちにとっても圧倒的に異端の存在として見えているわけである。
 つまり、私の今の服装は、私が自分で選んで着ている服装なのである。

 ちょっと雑然としたメモ書きになりつつある。いったんここで手を休めようと思う。
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● COMMENT ●

子ども達の最大の問題って?

今の子ども達が闘わなければいけない最大の問題って何なのでしょう。
学校という場は,子ども達にとってどういう場なのでしょう。
私達の頃とは,すっかり変わってしまったのは確かなようです。
家の娘達は,あれがいやだった,これがいやだったということはあっても,それを自分達で変えていこう,などとは,ほとんど思っていないようでした。中学生のころなどは,いろいろけしかけてみたのですが,周りに合わせて生きることを選択しているようでした。
私が高校生のときに,1年生のころから議論を積み重ね,3年の夏ごろ,制服を自由化しました。(私がやったわけではありませんが,わたしもその一員だったという自覚はあります。)女子高でしたが,先生方とも何度も話し合いをもって,きちんとした考えで,自由化したと思っています。そのときの政治経済の先生に
「あとで,制服がよかった,とか,かわいい制服だったらいい,とかいうんじゃないぞ。
話し合ってきた中味は,本当に大事なことだったのだから。」というようなことを言われたような気がします。だれからも決められるのではなく,自分の着るものは自分で決めるのだ,と思いました。そして,卒業式はもちろん私服でしたが,その前日に,ちょっぴりセンチメンタルな気持ちで,友達と制服登校をしたのでした。その高校は今は男女共学になりましたので,もう違った雰囲気だと思いますが,女子高時代の最後の頃の卒業式は,仮装大会のようでした。はかま姿,ドレス姿,バニーガール姿などもあったと聞きます。それも,自分で選んだ,ということなのかなあ,とちょっと疑問に思ったのでした。

rusieさんへ

少なくとも「学校制度」の問題と、子どもたちは対峙するのをやめてしまっているように、ぼくには見えます。学校制度に合わないことをする生徒はいますが、それは抵抗しているのではなく、無視している。要するに反社会(学校)ではなく非社会(学校)なのだろう、と。ぼくらが否応なしに意識せざるを得なかったものが、今の子どもたちには意識すべき対象に上っていないのかも、だとすると、これはもうぼくらには理解不能だなあ、と。今、学校は友達を作る場所ですから、で、もともとは学校側が子ども同士を「仲良くさせていた」わけですけど、今は彼らが必死に勝手に仲良しを作ろうとしているように見えます。学校という同じ場所の中なのに、教師が守ろう(闘おう)としているものと、生徒が守ろう(闘おう)としているものが、全然違うものであるように思えます。どうでしょう?


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Author:石川晋
北海道の中学校教師を退職しました。
都内に潜伏して、ゆっくりのんびりしなやかに、教育、芸術、自然の話をしながら、これからの自分のことを考えつつ、新しい状況に対応する「学びのしかけ」のことを考えて行きます。facebookアカウントは、
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