堀裕嗣『一斉授業10の原理・100の原則』(学事出版) ちょっと修正 - 2012.11.01 Thu
午後はうららと散歩。
最後のかどを曲がったところで、うららは眠ってしまった。ぶらんこ遊びが楽しかったらしい。
今日は陽射しもあって、気持ちのよい午後だった。こんないい日は後何回あるだろう。育児休暇も半分を過ぎてしまい、とてもとても悲しく遠い気持ちになる。
さて、堀さんの新刊。
かなり前に送っていただいて読んでいたのだが、最近書評などを書く気力がなく(ジャム作ったり果実酒作ったりする気力はあるのだが)、遅くなってしまった。既にネット上に錚々たる方々の書評が載り、ぼくが今更書く必要もないのだろうが、少しだけ書いておきたい。
この本はとてもいい本である。
私は狭義な意味での「一斉授業」がファシリテーションや協同学習の授業の前提にあるという考えについて保留するが、少なくとも日本の学校教育の現状では、教室において一斉授業ができなければどうにもならんということははっきりしていると思う。
それで、この本だが、見事に堀さんならではの「一斉授業の守備範囲の拡張」が行われて提示されている。そのこと自体が見事に提案的なのである。でも、堀さん自身が、また多くの先生方が心配するように、この基本的な研究提案的姿勢すら理解せずに読んでしまう人はいるのだろうなあとも思う。堀さんや私がよく使う「環境調整型権力」もまた意識して使うことで、「一斉授業」にヒドゥンカリキュラムとして機能する権力だと、まあ、堀さんの立ち位置は一貫している。
堀さんは積極的には書いていないが、このジャンルの本を書く中で、当然向山洋一さんの『授業の腕をあげる法則』(明治図書)を意識しないわけがなかろうと思う。正直に言って、一斉授業に関しては、向山提案以降(大西忠治『授業つくり上達法』(民衆社)以降と言ってもいいと思うのだが)、その提案のフォローワーク以外の仕事を、一般の教育書の中にはほとんど見ないと言っていい。それだけ向山さんの提案が重要だったということになるのだが、しかし、もう発刊から30年になろうかという本なのだ。30年前には想像もしなかった課題が山積し、教育環境・授業環境を取り巻く大きな変化もある中で、向山さんの本のフレームから自由になれず、それが一向に研究史的に乗り超える対象にならないのは、私たちの国の教育の行き詰まりを端的に示す例とさえ言えるわけだ。
例えばこの本では「フレームワークの原理」「グループワークの原理」「ポートフォリオの原理」などが10の原理にすっきりと入れ込まれていて、なるほどと思う。これは、一斉掌握発想の従来型の「一斉授業」を想定していると絶対に入って来ない。つまり、フレームワークが違っているわけだ、考えてみれば当たり前のことなのである。
堀さんのこの本を越えようという気概を持った本が、これから30年も出ないような教育状況にならないことを切に願いたいところだ。ちなみに、来年夏の授業づくりネットワーク帯広は、この本に特化した提案を堀さんにしていただく予定になっている。
それにしても堀さんとはよい縁をいただいた。私の友人にこれほどの仕事をする人間がいることを誇らしく思う。多くの人は、なぜ私と堀さんが一緒に仕事をやれるのかと問うが、それは決定的に違うからである。仕事のフィールドはどんどん近付いても、決定的に世界認識の仕方が違うのだと思う。だから楽しくやれるのだ。
私も私にしか書けないものを書こうと思う。
ちなみに読者にとってはどうでもいいことだが、多分堀さんにとっては大切な問題を一つ指摘しておくと、カバー裏のサークル紹介が「水輪」ではなく「水倫」になっている。二版で直してもらうといいよ。「倫」の字は似会わないよ。
最後のかどを曲がったところで、うららは眠ってしまった。ぶらんこ遊びが楽しかったらしい。
今日は陽射しもあって、気持ちのよい午後だった。こんないい日は後何回あるだろう。育児休暇も半分を過ぎてしまい、とてもとても悲しく遠い気持ちになる。
さて、堀さんの新刊。
かなり前に送っていただいて読んでいたのだが、最近書評などを書く気力がなく(ジャム作ったり果実酒作ったりする気力はあるのだが)、遅くなってしまった。既にネット上に錚々たる方々の書評が載り、ぼくが今更書く必要もないのだろうが、少しだけ書いておきたい。
![]() | 一斉授業10の原理・100の原則―授業力向上のための110のメソッド (2012/10/11) 堀 裕嗣 商品詳細を見る |
この本はとてもいい本である。
私は狭義な意味での「一斉授業」がファシリテーションや協同学習の授業の前提にあるという考えについて保留するが、少なくとも日本の学校教育の現状では、教室において一斉授業ができなければどうにもならんということははっきりしていると思う。
それで、この本だが、見事に堀さんならではの「一斉授業の守備範囲の拡張」が行われて提示されている。そのこと自体が見事に提案的なのである。でも、堀さん自身が、また多くの先生方が心配するように、この基本的な研究提案的姿勢すら理解せずに読んでしまう人はいるのだろうなあとも思う。堀さんや私がよく使う「環境調整型権力」もまた意識して使うことで、「一斉授業」にヒドゥンカリキュラムとして機能する権力だと、まあ、堀さんの立ち位置は一貫している。
堀さんは積極的には書いていないが、このジャンルの本を書く中で、当然向山洋一さんの『授業の腕をあげる法則』(明治図書)を意識しないわけがなかろうと思う。正直に言って、一斉授業に関しては、向山提案以降(大西忠治『授業つくり上達法』(民衆社)以降と言ってもいいと思うのだが)、その提案のフォローワーク以外の仕事を、一般の教育書の中にはほとんど見ないと言っていい。それだけ向山さんの提案が重要だったということになるのだが、しかし、もう発刊から30年になろうかという本なのだ。30年前には想像もしなかった課題が山積し、教育環境・授業環境を取り巻く大きな変化もある中で、向山さんの本のフレームから自由になれず、それが一向に研究史的に乗り超える対象にならないのは、私たちの国の教育の行き詰まりを端的に示す例とさえ言えるわけだ。
例えばこの本では「フレームワークの原理」「グループワークの原理」「ポートフォリオの原理」などが10の原理にすっきりと入れ込まれていて、なるほどと思う。これは、一斉掌握発想の従来型の「一斉授業」を想定していると絶対に入って来ない。つまり、フレームワークが違っているわけだ、考えてみれば当たり前のことなのである。
堀さんのこの本を越えようという気概を持った本が、これから30年も出ないような教育状況にならないことを切に願いたいところだ。ちなみに、来年夏の授業づくりネットワーク帯広は、この本に特化した提案を堀さんにしていただく予定になっている。
それにしても堀さんとはよい縁をいただいた。私の友人にこれほどの仕事をする人間がいることを誇らしく思う。多くの人は、なぜ私と堀さんが一緒に仕事をやれるのかと問うが、それは決定的に違うからである。仕事のフィールドはどんどん近付いても、決定的に世界認識の仕方が違うのだと思う。だから楽しくやれるのだ。
私も私にしか書けないものを書こうと思う。
ちなみに読者にとってはどうでもいいことだが、多分堀さんにとっては大切な問題を一つ指摘しておくと、カバー裏のサークル紹介が「水輪」ではなく「水倫」になっている。二版で直してもらうといいよ。「倫」の字は似会わないよ。
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● COMMENT ●
「倫」の字は晋よりは似合うと思う。まあ、相対的な話でしかないが。
まあ、相対的な話だな(笑
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