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2017-10

研究会考・・・メモ さらにさらに少し修正 - 2012.10.14 Sun

 昨日は羽田で、ぼくが関わる研究グループのみらいについて あれこれと相談をしました。
 その中で、イベント(研究会・研修会)の企画のことも議論されました。

 ぼくが2年前から研究会を開催することも登壇することも事実上ストップにしてきた理由はいろいろあるのですが、大まかには地続きの三つなのです。

 一つは提案したものを消費されることに耐えられなくなったということです。
 ぼくはもともと自分の教室実践についての考えをまとめたり人前で発表して批正いただくことを目的に研究会登壇を続けていました。第一義的にはぼくの実践をよくしていくためのものだけど、付き合っておもしろかったり役に立つと思ったりする人がいるのならどうぞ来て下さい、ということです。でも、そうした活動でも長く続けてくると、ある種の権威の話に接するような御拝聴の雰囲気とか、教えを乞いたいのですとか、そういう空気が生まれるのを肌で感じるようになってきました。そして教室で使える「お役立ちセット」のようにもらって帰って何も思考しようとせずにそのまま使う(消費する)人たちが明らかに出てきました。逆に、そのまま使えないとこんな場合にはどうやって使うのですかなどということを質問されたり、すぐに使えるネタが多くてうれしかったと言われたり・・・。教育活動って、そんな簡単なものでもいい加減なものでもない。そんな「消費されていく感覚」に耐えられなくなってきました。

 二つ目は研究会や研修会に参加している先生方の教室の実践があまり変わっていないのではないかという深刻な疑いが生まれてきたということです。
 研究会や研修会に出ることは、基本的には教室実践を変えるための行為です。でも思考せず「ものもらい」を続けても、教室の日常は何も変わっていない。そういう「ものもらい」を大量に生み出しているのではないかという深刻な疑いに自分が耐えられなくなったということです。実はそのように思わざるを得ないエピソード体験がいくつも溜まってきてしまったのです。実践は自分の教室の子どもたちや自分の技量や性向や、その他いろんな諸条件によって生まれていくという当たり前のことが、こと集会の提案というような形になった途端に教典か聖典のようになって、自分のクラスで考えるという当たり前のことが当たり前でなくなるらしいという厳しい事実は、ぼくの気持ちを萎えさせました。

 三つ目は、特に大規模な研究会や研修会は本質的にある種のカタルシス(高揚感)を生み出す構造になっています。でもその弊害の大きさと罪深さは甚大です。参加者や時には講師自身さえ、そのカタルシスに酔い、学ぶことの目的を踏み外しているのではないかという深刻な反省が生まれてきた、ということです。
 例えば、どんなダメクラスでもたいがいは卒業期には一時の高揚が起こります。よかったいいクラスだった、みんなと離れたくないという風になります。そして、学ばない多くの教師は、最後はよくなったよかったといってカタルシスを共有して思考停止する・・・それは一時の高揚感みたいなものなのです。その高揚感に子どもたちが包まれることは大切ですが、教師はそれだけではダメなのです。実際、教室の豊かな事実というのは、実は卒業期や進級期のゴールにあるのではなく、途上にこそあらわれるわけです。途上が変わらず最後に生まれるカタルシスで水洗トイレの水みたいにきれいに流してしまうのが、耐えがたいくらい嫌です。ぼく自身が作って来た研究会や研修会もまさにそのような状況を生む構造になっているのではないかという深刻な反省です。ぼくはいろんな事情で30歳前後に、クラスも授業も、一人歩きする名前に、自分の現実は追いついていない状態で研修会などを実施する立場になりました。だから、一人歩きする立場や名前に実際の自分を追いつかせるために死に物狂いでした。でも、どうやらそういう後ろめたさや無力の自覚を持たず、研究会参加も登壇もそのこと自体に酔いしれて、根拠レスな自己肯定の道具に使っていく人が少なからずいる。継続的な日常的な研究や研修には結びつかず、やりきった充実感で、事実上美しい映画の終わりのように終わり、後には変わらない日常が残る。下手をすると参加したことを盾にして開き直ったりする人がいたりする。あるいは終えたことでの充足感から日を追うごとに、燃え尽き感だけが残っていく姿がある・・・。

 自分の身近な場所での研究会や研修会なら、そうした問題があってもある程度フォローができるかも知れない、そう思っていました。だから、地元の研修会は引き受けますというメッセージを出していました。ですが、それも自分のおごりや過信ということもよくわかりました。それは場所とか距離とか、そういうことで解決できる問題ではない・・・。
 こうした問題を自分の中で解決できないことが、ぼくが登壇も研究会づくりもためらってきた理由です。

 でも、とにかく賽は振られました。ぼくはもう一度研究会、研修会づくりにチャレンジしなければなりません。
 そういう運命なのでしょう。
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● COMMENT ●

◆ 表現が適切かどうか分からないが、ぞくぞくするような意見で、僕も考えを伝えたいと思います。
①実践は、消費されないと思います。いかに真似しようと、核のない教師には、実践として根付きません。つまり、役に立ちません。役に立っていると思いこんでいるだけです。それはそいつの責任で、例えば、晋さんの本を読んで、作文教室で聞き取りミュージックをやってみました。初日は失敗。原因を考えて二日目からは、軌道にのれたかなと思いました。
この子どもに対して修正ができるためには、核になるものをもっていないといけないと思うのです。僕は、若手には本質論を説きます。
②「ものもらい」って、いい例ですね。このブログを、「ものもらい」している連中は、どう読み取るのでしょうか。僕は、模擬授業をしてくれと言われると、すごく違和感を感じます。教師に授業をすることが、実際の授業とあまりにも違いすぎるから。今、人に呼ばれて「ものうり」をしに行くだけの自分としては、ある意味、耳が痛いですが、僕は、現代の教師を励まし、助ける仕事をしていきたいと考えています。
③研究会の高揚感は、ぼくのようなタイプにはしんどいものです。冷めてしまうのですね、そういうのを見ると。僕が、どこかの会に所属せず、一匹狼のようにしてやってきたのは、実は、そこに抵抗感があるからなんです。
◆晋さんは、名前が売れていって研修研究会への登壇が増えるのに比例して、そのことに対する疑問を持っている。そういう人こそ、語ってほしいと思います。若くしていろんなところで活躍する教師を見て、僕は、クラスの子どもはどうなっているんだろうと思ってしまうのです。僕には、若い頃に、休みも全て子どもたちのことに使っていたから、その余裕が不思議なのです。月曜日に体調崩すなら、日曜はおとなしくするべきだとも考えます。
なんか、誰かに提供するのではなくて、本気で、学級や子どもについて研究する現場からの研究会はないのかなあと思います。
完全に思いつきのつぶやきです。まとまっていませんが、何か伝えたくなりました。 

どれだけ文書を理解できているか分かりませんが…

SNSが発達して、駆け込み寺のような、一見さんオッケーの研究会が増えましたよね。

必死にメモを取って、サクセスストーリーを聞いて、高揚感を得て、明日から頑張る勇気が持てましたってな感じで、帰っていく。

そして、現実とサクセスストーリーの違いに愕然とする。まだまだ、勉強が足りないんだと、いそいそと研究会に赴く。怖いですね。

僕も最近は、ほとんどそのような会(曖昧な括りですが)には行きません。それよりも、隣のクラスの先生と実践について語り合うことや、自分自身の実践について振り返ることの方が価値があると感じています。

とは言ってみたものの、ダイスケさんの会はとても気になります。
具体的な話が固まってきたら、教えて下さい!!よろしくお願いします!

シェアされたリンクと知らず…

石川先生のブログだとは気づかず、シェアされた先生のブログだと思ってコメントしてしまいました。(涙)
ちなみに、先生の「対話がクラスにあふれるー」の著書を拝読させて頂きました。勉強させて頂いております。これからのご活躍もお祈りしております。

大串さんへ

 大串さんってどこでお会いした方だったかなあと思いながらコメントを読んでいました(笑)。ぼくの記事の趣旨をとてもよく理解して下さっていて、うれしかったです。本の購入もありがとうございました!

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繰り返し読みました

繰り返し読みました。参加者の立場で,僕も当てはまるところがあるなあと,我が身を振り返りながら読みました。登壇することや研究会づくりに,さまざまな葛藤があるのですね。晋先生からいろいろなことを学んできたつもりですので,僕個人の思いとしては,やはり登壇されることを願っています。

最近、同じことを考えていました。
民間教育研究会だけでなく、校内研修や委員会の研修も同じです。
力量を形成するためにはどのような研究会であるべきか。

「教師の学び方」を問い直す

『授業づくりネットワーク 2010 3月号』掲載の晋先生の論考を読み直しています。
「私の模擬授業は一例の提示に過ぎない。つまりそこから典型的な授業構造に参加者が目を向け,自分なりの授業を構想してほしい,そのための講座であるはずだった。私の授業ネタを教室で使ってみたいと考えるのは,それはそれでよい。しかしそれは,一人ひとりの教師が,子どもたちの状況や教室の状態,自分の技量,そういう自分自身からスタートする思考の過程を経た結果としての選択であるはずだ。」
「授業づくりとはどのような営みであろうか。それは本来,子どもたちとのせめぎ合い,教材の真剣な分析,そして教師一人一人の熟考と試行錯誤による構成によって成立する営みであろう。今,こうした当たり前のことが共通の土壌になっていないのではないかという危機感を持つ。」

早坂さん、この原稿の存在を忘れていましたというか、この原稿だけが一部分しかPCに残っていないのです。改めて読み直してみました。今日実はずうっと考えていたことにつながることでした。驚きです、ありがとうございます!

ありがとうございます

こちらこそ,ありがとうございます。
官製の研修会ですが,僕もときどき登壇することがあるので,
晋先生の言っていることと似ている気持ちになることがあります。


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Author:石川晋
北海道の中学校教師を退職しました。
都内に潜伏して、ゆっくりのんびりしなやかに、教育、芸術、自然の話をしながら、これからの自分のことを考えつつ、新しい状況に対応する「学びのしかけ」のことを考えて行きます。facebookアカウントは、
https://www.facebook.com/profile.php?id=100000528475920
ぼくにできそうなことは、どんどんお受けしますので、遠慮なくお知らせください。FBのメッセンジャーが一番確実です!

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