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2017-10

本来「切実さ」によってこそ「手法」は選ばれる - 2011.12.17 Sat

 「絵本の読み合い」、「メディアリテラシー」、「対話型ギャラリートーク」、「合法的立ち歩き」、そして現在取り組んでいる「協同学習」系列の手法…私はへたくそな授業しかできない実践者だが、探し当てた手法、選びとってきた手法は、その時その時の子ども達の「学び」の在り様を考えた時に、いつも切実なものだったと、そこだけは断言できる。

 いつも新しいものに飛びついて来たように見える人もいるだろうが、新しい現実に立ち向かうには、新しい手法と向き合うしかなかった。それは、大学3年生の時、まだカルト作家に過ぎなかった村上春樹を卒論対象に選んだ頃から、一貫して、ぼくが世界に関わる流儀であった。

 例えば、物語教材の主題を読み取らせ、それをノートに書かせるというオーソドックスな授業を想定してみる。

 生徒の多くはなかなか書けなかったりする。それはよくあることだ。その時ぼくは、5分なり10分なり、手に負えない主題読みに孤独に向かい合わせてしまった切なさや心細さを内心詫びる(孤独というよりも、学びから孤立しているということだ)。そして、協同的な学びを通して、書けなかった生徒達が手掛かりをつかみ、時には「教えて」と問うたりしながら、自立した読み手として主題と向き合えるような手立てはないか一所懸命考える。
 それが「合法的立ち歩き」だったり、「対話型ギャラリートーク」をおそらく日本ではじめて国語教育に取り入れることであったり、「WBM」だったりした。

 「WBM」も「ワールドカフェ」も、「インストラクション」として、あるいは「システム」として、書かれたものが「カオス」になることを奨励する。それは、「特定の誰が書いたものかわからなくすること」に、世界の姿があるからだ。世界とはそのような姿をしており、そこに誰がいてもいい。だから、WBMでもワールドカフェでも、子どもたちは安心して書くことができる。
 「誰が書いたかわからなくなるように書きなさい」という言葉の思想に立ち止まれない、つまりその切実さを共有できない人が、これらの手法を使うと、結局、最新のアイテムを使った見栄えのする生徒掌握システム、あるいは、出来る子の意見を押し戴く学習、さらには、向かいあって話し合っている体裁を持っているだけの個別バラバラ学習になる。
 例えば全く真逆に「誰が書いたかわかるように書きなさい(言外に、後で使うからという意味が込められており、それを頭のいい子だけが見抜く)」と指示したりなどすれば、主題を言語化できずにノートの前で立ち往生した子ども達は、饒舌な子ども達の意見をただ押し戴くことになる。(本来世界がそのようであるように)ワイワイガヤガヤとした学びの姿はなく、粛々と意見を述べ合い、模造紙やホワイトボードがあれば、隅に意見を書く(自分の場所を守って書く)、時には誰か能弁な生徒が一面に表を書いて、鋳型にはめ込むように、仲間の意見を取り込もうとしたりする。つまり、もうそこに協同的な学びがあるのかどうかは疑わしい。

 それは、例えば対話型ギャラリートークもそうだ。アメリア・アレナスの取り組みは、本来、わからないもの、不可思議なものに向けられている。要するに混沌としたもの、カオスなもの(それは具象、抽象の問題ではなく)を、人々の「対話」によって生まれるエンパワーメントによって、創造的に意味づけようという行為だと思う。

 そう、対話型ギャラリートークの肝は「対話」だった。従来のギャラリートークとの差別化のポイントはここであり、話し合うということの価値を最大限に重要視したということだ。だから、例えば、他に十分な話し合いが用意されるなら、対話型ギャラリートークは必要がない。対話型ギャラリートークをするために話し合いをするようなことがもしあるなら、それはまさに、屋上屋を重ねる行為である。

 結局、その手法を選ぶ切実さはどこにあるのかということなのだろう。

 新しい手法をやってみたいというある種の欲望の問題なのか、学び手の状況への切実感に基づいているのか。
 そういうことなのだ。
 いや、「いつも切実だった」と冒頭に書いたが、それも、かっこよく見せたい気持ちの表れである。ぼくだって、若い頃、新しい手法に飛びついて、その手法の上辺の美しさおもしろさに惹かれて、実践を行ったことがなかったとは言えない。「見たこと作文」も「ディベート」も、最新の実践へのなんとなく憧れがスタートだったと白状しなければならない。

 子ども達を気持ちよく動かす快感に、心惹かれてはならない。一人一人の学びの内実(あるいは学べない内実)にまなざしは向けられなければならない。アメリア・アレナスの本を紹介した上野行一はそのタイトルを「まなざしの共有」とした。まなざしを共有するのは誰なのか。その言葉の温かさと重さを誠実に受け止めたい。


ベートーヴェン : ヴァイオリン協奏曲ニ長調op.61ベートーヴェン : ヴァイオリン協奏曲ニ長調op.61
(2000/12/16)
千住真理子

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● COMMENT ●

ひさびさのコメントです。

音楽科の私が、山崎先生と知り合い『美術による学び研究会』につながったのは、まさに私の中にある「切実さ」故であったことを思い出しました。「5分間鑑賞」を始めたのも、『学び合い』に心引かれたのも、全てそうです。ただ、一貫しているのは、私は「手法」に憧れて、授業技術を追試するという作法をとったことがないのです。だから「ケーガン勉強会」に混ぜてもらっても、なかなか実践を作ることができないのです。

うまく言葉にならないのですが、月曜日にお会いできますので、お時間あればその際にお話できればと思います。山崎氏の教室を見た後の先生から、何を感じることができるか、明後日が楽しみです。またも長文となったことをお詫びします。ではまた。

最後の一言、共感します。

「子ども達を気持ちよく動かす快感に、心惹かれてはならない。一人一人の学びの内実(あるいは学べない内実)にまなざしは向けられなければならない。」
賛成です。とくに「学べない内実」が大事でしょうね。これをどういう学びの内実に切り返していくか。

あと、僕は、やっぱり基本は教科内容だと思っているんです。どんな簡単な内容でも、教師たるもの、知に倦いたらダメだと。子どもの学びの実質へのまなざしは、教師自身の学びの実質に振り返るのでは、と。


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Author:石川晋
北海道の中学校教師を退職しました。
都内に潜伏して、ゆっくりのんびりしなやかに、教育、芸術、自然の話をしながら、これからの自分のことを考えつつ、新しい状況に対応する「学びのしかけ」のことを考えて行きます。facebookアカウントは、
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