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2018-02

少しずついろんなことが進んでいくんだ - 2018.02.23 Fri

 今日も一日、少しずついろんなことが進んでいった。
 数日来の低体温は、結局当たり前だが、私の「体」の問題なのだ。
 学級通信に関する論考をいくつか読む。
 そうだ、学級通信のことも、もう少ししたら考えはじめる時期なんだな。

新版 学級通信を出しつづけるための10のコツと50のネタ
石川 晋
学事出版
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 加藤多一さんの本と向き合っている。
 岡和田晃さんの本を羅針盤に。
 教師教育を考える会メールマガジンも発行になった。
 一つずつやっていくんだ。

教師教育メールマガジン68号、金大竜さんです! - 2018.02.23 Fri

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メールマガジン「教師教育を考える会」68号
           2018年2月23日発行
http://www.mag2.com/m/0000158144.html
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在日韓国人として教員をする中で
               大阪市立新高小学校教諭
                        金 大竜
http://www.mag2.com/m/0000158144.html
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 68号は、金大竜さん(大阪市立新高小学校教諭)。あいさ
つ自動販売機の実践で一躍広く知られた若手教師。中堅に差し
掛かった今も、試行錯誤を続ける実践者です。 (石川 晋)
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 教員になり16年目を終えようとしています。この16年、
自分の中で考え方のターニングポイントがいくつかあり、そこ
には必ず人との出会いや別れがありました。

 僕が教員を志した理由は少し変わっています。それは、両親
が喜ぶ仕事、望む仕事に就きたかったからです。僕は、父に
「僕がどんな仕事に就いたら嬉しい?」と聞くと、父は「教師
がいいんじゃないかな。」と言いました。僕には、僕を通して
一人でも多くの人が笑顔になったり、元気になったり、夢を持
てたりするような人間になることを目標にしていました。そん
な僕にとって、職業はツールであり、その意識は今でも変わり
ません。教師という道具を使って自分の夢を叶えたいと考えて
います。だから、職業はなんでもいいのです。

 このような考えは全て父親からの影響です。僕は、日本人の
人よりも家族意識が強かったり、父の影響を受けやすかったり
するのかなと感じています。その原因は僕の出自に大きく関係
していると感じています。僕は、在日韓国人3世です。僕には
祖国がありません。実際には、国籍が韓国ですので祖国は韓国
ということになるかもしれませんが、韓国語も話せないし、韓
国には親類もいません。では、日本かといえば国籍が違います。
そんな僕にとっての祖国は、両親であり、祖父母なのです。
 僕は小さい頃から「日本人に負けるな!」と教育されてきま
した。特に一緒に暮らしていた祖母には、「日本人とは結婚し
てはいけない。」「仕事を選ぶなら、弁護士か医者。」と言わ
れていました。こうした環境で育った僕は「何事にも、誰にも
負けたくない!」という思いをもって動くようになっていきま
した。
 教師になり最初の10年、僕の中の中心にあったのは「日本
人に負けたくない!」という気持ちでした。当たり前ですが、
目の前の子どもの成長を願う気持ちやその未来が輝かしいもの
になってほしいという願いはありました。でも、それ以上に周
りの人に勝ち、それを認められたいなという気持ちが強かった
ように感じています。 
 だから、なんでも積極的に学んでいきました。わからないこ
とは先輩に聞いたし、公開授業のチャンスがあれば必ずしてい
ました。朝から職員室を掃除するなど、先輩たちの役に少しで
も立ち、その分たくさんのことを教えてもらおうと考えていま
した。
 そういう風に動いていると、先輩方からも可愛がってもらい、
授業のことや学級経営の方法などたくさんのことを教えてもら
えました。そして、すぐに実践しては、うまくいったこと、い
かなかったことを報告し、またアドバイスをしてもらいました。
 当時の僕は、教育書を読んだり、セミナーに参加したりする
ことはありませんでしたが、先輩たちに毎日話を聞いてもらう
ことで、教師としての力が育っていきました。
 当時から僕は自分の仲間に「日本で一番良い先生が韓国人
やったっていったら面白いよね!」とよく言っていました。と
にかく、自分の実力を向上させ、周りからの評価が欲しいと感
じていたのでしょう。そして、やはり心の中に「日本人には負
けたくない!」と感じていたのだと思います。
 
 教師生活3年目が終わった時、祖母が亡くなりました。僕の
祖母は脳梗塞で20年近く苦しんでいました。寝たきりのまま、
弱っていく祖母を元気付けようと祖母の生まれた村に行き、写
真を撮り、病室に持って行ったことがあります。その時の祖母
の反応は、僕の予想とは全くの逆で「見たくない!」と言って、
振り払いました。彼女は祖国での朝鮮戦争を思い出し、辛くな
るということを父に聞きました。病気で苦しみ、日本に苦しみ、
韓国に苦しむ。そんな祖母を見て、「この人はなぜ生まれてき
たのかな?」と考えました。考えてもわかりませんでした。で
も、「日本で僕が多くの人に必要とされたり、多くの人の役に
立ったりすれば、彼女が生きた意味が僕の中でできるな。よし、
日本一の教師になるぞ!」と考え、必死に勉強をするようにな
りました。
 夜間の大学院に行くようになりました。いろんな勉強会に行
くようになりました。本を読んでは、その筆者に会いに行くよ
うになりました。
 学校でも、なんの巡り合わせか、研究主任になり、その年に
4年後、全国社会科研究発表会の会場校になることが決まりま
した。毎日、社会の授業を校長が見にくるようになり、気づい
たことを教えてもらう日々が続きました。
 そこからは何度も公開授業をしましたし、たくさんの人が教
室を参観しにくるようになりました。僕の授業を教育委員会が
DVDにして、大阪市の全小学校に「授業名人DVD」として配られ
ました。全国社会科研究発表を終えると、セミナーの依頼が来
たり、単著の執筆の依頼がやってきたりしました。それが、教
師10年目ごろまで続きました。
 しかし、順調だったように感じていた教師生活も、なんだか
その頃から、自分の実践に違和感を感じるようになっていきま
した。その原因は自分では次のように考えています。
 以前は、今、目の前にいる子どもにとって何が必要だろうと
考え、学んでいました。でも、その頃は目の前の子どもではな
く、見にくる大人を意識し、いついつまでにこんなことができ
るようになっていて欲しいなと考えるようにもなっていました。
恥ずかしい話ですが、こんな風に無意識にもやっていたのです。
当時は一生懸命すぎてわかりませんでしたが、今、振り返ると
そうなっていたことがよくわかります。

 僕は、1校目に10年いました。そこから、2校目に行きま
した。そこで、これまでやっていたことが全く通用しない子ど
もたちと出会いました。これまでの自分の教育観の枠の中では
理解できない言動をとる子どもたちと出会い、僕の教育観は少
しずつ変わっていきました。この頃から、子どもの姿を見て、
何が必要なのかを毎日メモを取りながら考えるようになりまし
た。
 毎日のように子ども達の姿に価値観を揺さぶられ、価値観を
広げてもらいました。2校目には5年いたのですが、学級の人
数も42人、42人、40人、40人、40人と非常に多く、
多様な子ども達との出会いから、多くの学びをもらいました。
 そうして子どもを育てるということから、子どもの力を育ん
でいくように意識が変化していきました。堀裕嗣先生との対談
本にもある、魁(さきがけ)的な教師から殿(しんがり)的な
教師になるように子どもたちがだんだんと気づかせてくれまし
た。
 そこから教師としての自分のあり方だけでなく、在日韓国人
としての自分のあり方も変化するようになっていきました。日
本一だとか、誰かに勝つだとかいうことに興味がわかなくなっ
てきました。そうではなく、改めて、自分の本来の目的である
「僕を通して一人でも多くの人が笑顔になったり、元気になっ
たり、夢を持てたりするような人間になる」ということが中心
になってきました。
 また、自分には限界があることを感じるようにもなってきま
した。以前は、努力すればなんでもできるのではないかと考え
ていましたが、今は自分には限界があるなと感じています。限
界があるからできないことは人に助けてもらおう、そして、で
きないことに一生懸命になろうと思うようになりました。自分
に限界を感じるようになり、子ども達には一層優しくなれまし
た。
 そして、何より我が子の誕生が大きいなと感じます。何が変
わったかは言語化しにくいですが、自分の中では大きな変化が
ありました。子どもが生まれ、育てる中で、教室の子ども達の
いろんなことを許せるようになったり、温かく見守れるように
なったりもしました。

 こうした幸せな教師生活ですが、僕の中には今もチクチクと
する部分が今もあります。それは、教員といて管理職になる権
利がないことです。なりたいのではありません。権利がないの
です。僕の辞令には、「教員(指導専任)」と書いてあります。
つまり、管理職にはなれませんということです。こう書くと、
すぐに帰化したらという人がいます。しかし、僕の中では帰化
することは自分の祖国である祖父母や両親との何か大事なもの
を切るようにも感じてしまうのです。
 この年齢になると同期の仲間達の中にも、管理職試験を受け
る人もいます。そうした時、自分はなんだかとてつもなく、虚
しくなることがあります。自分には、なぜその権利がないんだ
と。この年齢ですから、いろんなことも学び、頭ではわかりま
すが、肚のところではモヤモヤするのです。
 時々、公立小学校の教員を辞めようかなと思うことがありま
す。それはなぜそう思うのか自分でもよくわからないのですが、
沸々と湧いてくるのです。自由がない、権利がないこの世界か
ら飛び出したくなるのかもしれません。今後、どうしていくか
はわかりませんが、自分ももう38歳。自分の中で思い描く未
来に思い切って進もうかなとも考えています。

 僕がどんな教師生活を歩んできたのか、そこでどんな出会い
があったのかについては「教師力の極意(明治図書)」を読ん
でもらえばと思います。子ども達からどんな学びをしてきたの
かは「『気になる子』『苦しんでいる子』の育て方: 一人ひと
りの凸凹に寄り添う(小学館)」を読んでもらえればと思いま
す。
 この執筆を通し、なぜこの機会にこのテーマで書くことに
なったのかなと考えました。それは、これまで出会ってきた人
への感謝の気持ちに改めて気付き、常に自分の成長は一人で成
し遂げられてきたんではないということを改めて認識するため
かなとも感じています。これからも自分の限界をよく知り、多
くの人に支えてもらいながら、周りの評価を気にせず、自分の
気持ちに正直に生きていきたいなと感じています。

==============================================
 金さん、ありがとうございました。
 今回も、金さんの出自も含め、難しいテーマをお願いして書
いていただきました。自分の内面にある感情と向き合いながら、
安易に答えを求めずに、教室で、子育ての中で、試行錯誤を続
ける金さんの在り方を尊敬しています。
 私たちの国の教育が抱え込んでいる問題の、ある側面を見事
に炙り出す論考を、丁寧に書き記してくださって、本当に感謝
しています。

 次回、2月27日火曜日は、鈴木美枝子さん(いわき短期大
学幼児教育科教授)です。小学校での教育ディベート実践の先
駆者の一人であり、現在は幼児教育に関わる学生を育てる教師
教育者の道を歩みつつある方です。

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メールマガジン「教師教育を考える会」
68号(読者数2641)2018年2月23日発行
編集長:石川晋(zvn06113@nifty.com)
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(まぐまぐ:教師教育を考える会)
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石川晋

Author:石川晋
北海道の中学校教師を退職しました。
都内に潜伏して、ゆっくりのんびりしなやかに、教育、芸術、自然の話をしながら、これからの自分のことを考えつつ、新しい状況に対応する「学びのしかけ」のことを考えて行きます。facebookアカウントは、
https://www.facebook.com/profile.php?id=100000528475920
ぼくにできそうなことは、どんどんお受けしますので、遠慮なくお知らせください。FBのメッセンジャーが一番確実です!

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