第九 など - 2010.12.31 Fri
今年はイッセルシュテット&ウィーンフィル。一番好きな演奏。
ベートーヴェン:交響曲第9番 (1997/11/06) ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団 他 商品詳細を見る |
武満徹:カトレーン (2002/10/30) 小澤征爾 商品詳細を見る |
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2010年が終わる - 2010.12.31 Fri
この数年、大みそかぎりぎりまで原稿を書いている事が多い。
何年前だったかは、大みそかの夕方ぎりぎりまで、柳谷さんとメールで相談しながら、ひたすら国語マスターカードの原稿を書いた日もあった。昨年も、言語活動の本を書いていた。一昨年は、中一ギャップと、横藤さんにチャンスをいただいた合同出版の障害理解のためのシリーズの本の執筆をしていた。
ぼくは、計画的に書けないのである。近年は特にそれがひどくて、書きはじめると一心不乱にやれるのだが、そこまでに費やすぼうっと過ぎていく時間があまりにも長いのである。
今朝がたまで、道徳の人気シリーズの原稿を書いた。実践が終わってもう3カ月たつ。ずうっとそのままにしてなかなか書き始められなかったのだ。そもそも依頼をいただいてから半年も手が付かずにきた原稿である。
ごめんなさい、やっと書けました・・・。
これで、終わりではなく、実は雑誌原稿が既に20日遅れ。これはもう正月の仕事である。
そして、年明けには、数十ページの雑誌原稿がある。
昨夜は、武満徹の”ジェモー”、他の交響作品を聴きながら、書いた。
昨日の日中は、ファリャやロドリーゴ、バルトーク、R.シュトラウスやスメタナ、ムソルグスキーなどを次々と聴いていたのだが、なんというか、西洋の音楽文法で書かれても、結局民族性から逃れることは困難なのだということを思っていた。ファリャやロドリーゴを聴くぼくは、なんと南欧の香り高き曲だろうと、思う。これを、スペインの人たちは、そのように感じながら聴けるのだろうか、ということも感じながら。
クラシック音楽の歴史というのは、異国の人々に評価されるということで進んでいった側面があるように思う。ヘンデルも、モーツァルトも、ショパンも、リストも・・・ファリャも、ガーシュイン、ショスタコーヴィチも。
そして武満も、である。おもしろいものだ。
今、日本の教育には、何十年ぶりかの「黒船」が押し寄せている。戦争直後のような強制的な側面を持たないので、気がつかない人も多いが、これほどまでに、学校教育に世界の動向が大きく反映されていく状況は、そうそうなかったことであろうと思う。
ぼくは、外国のいろんな考え方を、日本の風土の中に「自然に」取り入れていく絶望的な努力を、してみようと思う。山田耕筰や瀧廉太郎の厳しい試みのずうっと先に、はじめて、黛や武満や三善が存在するのだと思う。
何年前だったかは、大みそかの夕方ぎりぎりまで、柳谷さんとメールで相談しながら、ひたすら国語マスターカードの原稿を書いた日もあった。昨年も、言語活動の本を書いていた。一昨年は、中一ギャップと、横藤さんにチャンスをいただいた合同出版の障害理解のためのシリーズの本の執筆をしていた。
ぼくは、計画的に書けないのである。近年は特にそれがひどくて、書きはじめると一心不乱にやれるのだが、そこまでに費やすぼうっと過ぎていく時間があまりにも長いのである。
今朝がたまで、道徳の人気シリーズの原稿を書いた。実践が終わってもう3カ月たつ。ずうっとそのままにしてなかなか書き始められなかったのだ。そもそも依頼をいただいてから半年も手が付かずにきた原稿である。
ごめんなさい、やっと書けました・・・。
これで、終わりではなく、実は雑誌原稿が既に20日遅れ。これはもう正月の仕事である。
そして、年明けには、数十ページの雑誌原稿がある。
昨夜は、武満徹の”ジェモー”、他の交響作品を聴きながら、書いた。
昨日の日中は、ファリャやロドリーゴ、バルトーク、R.シュトラウスやスメタナ、ムソルグスキーなどを次々と聴いていたのだが、なんというか、西洋の音楽文法で書かれても、結局民族性から逃れることは困難なのだということを思っていた。ファリャやロドリーゴを聴くぼくは、なんと南欧の香り高き曲だろうと、思う。これを、スペインの人たちは、そのように感じながら聴けるのだろうか、ということも感じながら。
クラシック音楽の歴史というのは、異国の人々に評価されるということで進んでいった側面があるように思う。ヘンデルも、モーツァルトも、ショパンも、リストも・・・ファリャも、ガーシュイン、ショスタコーヴィチも。
そして武満も、である。おもしろいものだ。
武満徹:ジェモー (2004/03/24) 東京都交響楽団 商品詳細を見る |
今、日本の教育には、何十年ぶりかの「黒船」が押し寄せている。戦争直後のような強制的な側面を持たないので、気がつかない人も多いが、これほどまでに、学校教育に世界の動向が大きく反映されていく状況は、そうそうなかったことであろうと思う。
ぼくは、外国のいろんな考え方を、日本の風土の中に「自然に」取り入れていく絶望的な努力を、してみようと思う。山田耕筰や瀧廉太郎の厳しい試みのずうっと先に、はじめて、黛や武満や三善が存在するのだと思う。